どこまでを自分らしさと定義するか
人にはそれぞれ個性がある。
個性とは能力や性格の組み合わせだと思ってるけどそれはまた別の話。
最近僕は、「自分らしさ」というものに甘えてはいないかと感じている。
例えば遅刻癖がある人を周囲の人間が
「あいつはそういうやつだから」
と許容していることがよくみられる。
呆れ半分のケースも勿論あるだろうけど、容認されているケースも同様にあると思う。
子供の頃はそういうものを排するように、改善するように指摘されるのに、大人(ここで敢えて境界を定めることはしないけど、自らをそう認めている人)になってからは他人の、あるいは自分の個性や性格として改善を怠るようになる。
それで良いの?って僕は言いたくなってしまった。
きっかけは後輩の協調性を欠く言動から。
年齢から考えればあまりにも幼いと感じさせるそれに、後輩の同期達が口々に
「あいつはもう、そういうやつだから仕方ないんですよ」
と言う。
周囲がどうにかできるものでない場合もあるけど、例えば陰口が多いとかそれこそ遅刻が多いとかならそれは周りが教えてあげたって良いとおもう。ただしその人に、周囲にそうさせるだけの魅力があったり、勿論本人に改善する意識がなきゃ意味はないけど。
要するに悪いところまで自分らしさとするのは違う気がするのだ。だから自覚がなくても他人から言われることが多いことは改善するべきだし、そうやって癖づければ自分の行動を省みることにも繋がる。
ここでタイトル回収するんだけど、じゃあどこまでを「自分らしさ」とするのかってことを考えるようになった。
僕の例を挙げると、LINE上のやり取りで、素っ気ないと言われること。絵文字やスタンプをあまり使わないから感情が分からなくて怒ってるようだったり、冷たく感じたりする、と言われたことがあった。今も言われるか。
これを僕は自分らしさだと思っていた。でももしかしたら、って今一度省みると、これはコミュニケーションをさぼっていたんじゃないか、と思うようになった。
そうするとじゃあ僕らしさとはってなんだろうって悩みはどんどん尽きなくなる。
容姿や能力だけをその人たらしめるなら、もう性格に自分らしさは見出せないのかもしれない。
ただ、そんなわけはないはず。
明るいとか優しいとか、それを否定してしまうのは違う。かと言って悪癖まで自分らしさとはしたくない。
そこで僕が達した結論は、
「疑問を持つかどうか」だ。
遅刻癖を自覚して、それでも自分の行動に疑問を持たないならばそれは自分らしさだろうということ。
周りができるのは自覚するところまで、かもしれない。
そんなこと言われても、じゃあこういう場合はという意見も当然あるとは思うけど、僕はこう定義したい。
アイデンティティとかそういう話に持って行こうとしたけど、なかなか難しいのでここらへんで。書き足りない感もあるけど疲れたので続き書くかもしれない。