「好きになりたい」はおかしいだろうか
誰しも好きなものがあると思うんだけど、それとは別に好きになりたいものや人、事柄が存在していたりはしないだろうか?
僕はそれがたくさんあって、悩みの種でもある。
有効な例えは見つからないので僕の場合を挙げると、たとえば音楽だ。いきなりだけどこれが本題。
音楽なんて好きでやるものだから本質を忘れたくないみたいなことを過去に(というよりほんの1〜2週間の間だったと思う)書いたと思うけど、僕はきっと音楽が好きじゃない。
じゃあやめろって思うのかもしれないけど、そこでタイトルの文言が出てくる。
好きになりたいから困ってる。音楽や他に何か打ち込んでいたら好きなものがある人にはなんのこっちゃかもしれないけど、同じ悩みを抱えてる人はいて、多分僕と似ている。
いや、音楽というより努力が苦手なんだと思う。
よく「努力できることは才能」だというけど、これは本当の話だ。才能に関しては肯定する人も否定する人もいるだろうけどそれはまた別の話として。
僕は結果や成果の妄想ばかりをする。
称賛の拍手を浴びたり、莫大な富を得たり、そういう俗っぽいものだったり、あるいは少年マンガ的ドラマだったり。
僕が好きなのは多分それだと思う。あとはわかりやすい結果も。ゲームはそれを得易いから好きなんだと思う。
でも僕は音楽や努力を好きな人間でありたい。
音楽を好きになりたい。ただギターを弾くことも、歌うことも、曲や歌詞を書くのも。
親しい友人から、「満足のレベルを自分に合わせる」という言葉をもらった。
つまり承認欲求というのは他人の満足のレベルに合わせているから生まれるものだと。
一方で少し有名な人の「承認欲求は生まれながらに持っている武器。人からの承認で満足できるのだから生かすべきだ。」という旨の言葉も拾った。
多分どちらも正しいので、どちらもとりたいと思うのだけど、どうやったら得られるのかはわからないので、手探りだ。
つまりまとめると、僕は何かを好きな理由が欲しいのではなくて、理由もなく好きでありたい。
その理由はあるいは承認欲求だったりするので、それも持ったまま生きたいってことだ。
まとめられたかな?