現実と妄想のボーダーレスブログ

好きなことや嫌いなことを好きだ嫌いだと言うブログです

言わなくていいことの方が多いけど

一ヶ月経ったのでまたはてなブログから記事かけって催促が来ました。

※下書きを書いて放置していたのでさらに時間経ってました

 

最近思ってることしか書けないですが思ったので仕方ない、じゃんじゃか書いていこう。

 

小中高と義務教育を経て今に至るわけだけど、その間にどんどん自我が確立してきて、良くも悪くも思慮深くなってきているんだろうと思ってる(飽くまで年相応に)。

頭に浮かんだことをすぐいうべきではないんだなっていうことがわかってきて、TPOを考えて発言をするようになる。これは概ね正しい、と思う。成長してると言える。多分。

ただ最近明らかに言葉を飲み込むようになってる。ブログを始めたのもそういうふうに感じ始めたからで、ここでなら好き放題言ったってどうせほとんどの人が見てないからって開き直ってる。リアルでは言わざるべき言葉ばかりどんどん増えてきて、気づいたら

「あれ、別にあれもこれも言わなくていいことばっかりだ。」

ってなって身動き取れなくなってきてる感がある。

表現の方法はいくらでもあっても、やっぱりベースは普段の会話やSNSだったりするので、そこを縛られているような感じは正直気持ちのいいものじゃない。

軽いジレンマのような状態、人によっては重度のものもあるんだと思う。

言わなくていいことを、それでもやっぱり言えてしまう人はもしかしたら凄く強い人なのかもしれない。言わなくていいなぁと思い至る前に言ってしまったり、溜め込むことが辛く鬱陶しく感じて言ってしまったり。

「誰にも言わないでね?」

「ここだけの話なんだけど、」

「ぶっちゃけ思ってたんだけど、」

常套句である。言わなきゃいいんだそんなこと。

 

ということで今回は言わなくていいことは言わないようにしましょうという話でした。

 

 

 

 

で終わってしまってはいけない。「〜けど」なんてつけたのには意味がちゃんとある。

 

言わなくていいことの方が多い。多いんだけど、上の常套句みたいに会話で使うことはまあもちろん、それだけじゃなくて、LINEで途中まで打っていた文章を全部消したり、これは言ってやろうと思っていた不平不満を言わなかったり、理由はともかく飲み込んでしまった言葉がきっとある。

自分の胸の内を曝け出すということは物凄く怖いことで、だからこそ内面を見せられるのは言葉でしかなかったりする。それを飲み込みすぎたら、悪い形でどこかで出てしまうかも知れない。

言葉は選ぶべきだ。吟味するべきだ。ただたまには吐き出してもいいのかもしれない。

 

なんか打っててまとまらなくて放っておいたんだけどなんとなく出来たのでこれも晒すことにする。

まだ続くよこのブログ。

 

速度重視の記事-機材編-

普段結構時間かけて記事書くんだけど今日は推敲ほぼなしで行くので、iPhoneの変換に頼りまくりんぐくりんげーしょん。

 

 

何を書くかも決めてなかった。

 

 

機材のことでも書こう。

今僕アコギ一本エレキギター4本ベース1本持ってるんだけど多すぎて管理に困る。特にエレキギターが多すぎる。捨てたいとは言わない。

というか天井に収納できたら最高なんじゃないか。収納のこと考えずにポンポン物ばっか買うから床に物が散乱するんだよね。

エレキギターは4本中3本がフェンダー系(スクワイア含む)なんだけど、最近よく弾くのはジャガーストラトとスターキャスター。ジャガーストラトは音作りの幅があって面白いし、スターキャスターはハムバッカーのセミアコだからなんか太くてなんかいい。知らんけど。見た目がかっこいいからそれでいい。

弾き心地的にはジャガーストラトはかなり良くて、テンションも結構低めだからチョーキングしやすいしそもそも押弦もしやすい。色に飽きただけで。

 

エフェクターは結構前にボード組んでからほとんどいじってない。歪みもほぼ変わらず、ただファズだけがなんか浮いてる気がする。とりあえず歪み系3種揃えようみたいな感じで買うからこんなことになる。おばか。

あとはファイザートレモロ乗っけてるけど正直今使うのDD-500だけだし、これだけでヤバイ音いくらでも作れるからモジュレーション持て余してる。これは内緒。

スイッチャーのMIDI設定がよくわからない。ややこしい。とにかくややこしい。CCの解説どなたかお願いします。

 

最近秋田さんが僕の質問答えてくれて、今まで食わず嫌いしてたTS系が僕のハートを撃ち抜いたのだ。

セロトニンとか気になってるけどとりあえず兄に借りたワンコンの緑弾いてみて、本家も引いてみて、なんかいい感じのがあったら買いたい。アマギフで。

 

機材の話大好きだけど音楽の話とは似て非なるものだと思ってるからほどほどにしたい。

今度好きな音楽のことでもかこうかな。

 

追伸

失くしたと思ったライトニングの変換見つかりました。

 

 

今日の入道雲がめっちゃ綺麗だった話

タイトルが全ての記事。

というか最近記事のネタになる話何も浮かばないのでこれです。

 

なんだろうね、多分手に持てるよねあの雲はね。

夏といえばの代表格に食い込むぐらい個人的に夏を担ってると思ってるんだけど共感してもらえんかな。中学生の時に友達から借りたCDの中に『タイムマシンと入道雲』って曲があったんだけど、やっぱり夏だなーって思ったし、やっぱりいいな、入道雲

あんなに実態がありそうなのに背景に徹してる感じがもう俗っぽく言うとエモい。えもももももももものうちだな。

 

あとあれです、夏場の焼肉の匂いは複雑になる。食欲のない中押し付けられてうわーやめちくりーってなるけど、(美味しいよな絶対......)っていう感情にさせられる。魔力持ってる。

 

そういえばこの前デパートの駐輪場でラックから自転車抜けなくて40分くらい足止め食らった。初見殺し的な故障してて気付くのだいぶ遅れたよ。

 

気がつくともう8月も半ばで結構メンタルに来るんだけど、やることはやらんといけません。

この時期のバイト中の楽しみは入道雲に決定しました。頑張りましょう。

 

 

価値観の多様性の末路

「末路」って基本的に悪い結果の時しか使われない感じがする。言葉の雰囲気からというか。刷り込みかな?

 

現代というかここ数年特に価値観の違いに対して寛容になってきてるなあと感じる。わかりやすいところで言うと性別に関することとか。趣味趣向とか男女平等ほにゃららetc...。

寛容であることには何も異議はなくて、でもそれを他人に指摘するようになってから、強制するようになってからとても違和感を感じている。

 

彼は彼女は、同性を好きみたいだ。それに対して普通じゃないとかいう言葉を使うのは失礼だ。

 

これは全然変に聞こえない。本人らが主張するのもまったくもっておかしくない。

例にとった性別とか性に関することは恐らく順調に多様性が認められる気がする。

ただもともと普通だったものが脅かされたらどうだろう、なんて考えてる。

 

最近の女尊男卑に近いような社会に、そういう危うさを感じてる。これは、というかブログ自体そういうものだから仕方ないけど個人の見解として参考までに。

日本は男尊女卑社会だったのは言うまでもなく、今でもその風潮が根強く残っている地域もあると聞く。それが今は、男女平等を目指すようになっている。でもきっと、平等のままではいられない。どこかで振り切るんじゃないかと思ってる。

 

これは振り子のように偏りを行ったり来たりするんだと解釈してて、いずれはまたどちらかに偏るんだろうと思ってる。

 

どこかで価値観の多様性もいきすぎる。寛容さはいずれ誰もが「持たなくてはならないもの」になるんじゃないかと。

 

監視社会みたいになってきてるのがすごく怖いけど、せめてここだけでも歯に衣着せぬ物言いをしていきたい。

 

ちなみに僕のバンド名である「タブー」もこれに近い信念というか思惑を持ってつけたもの。

ここだけはブレさせずに行きたいと思う。

 

どこまでを自分らしさと定義するか

人にはそれぞれ個性がある。

個性とは能力や性格の組み合わせだと思ってるけどそれはまた別の話。

 

最近僕は、「自分らしさ」というものに甘えてはいないかと感じている。

例えば遅刻癖がある人を周囲の人間が

「あいつはそういうやつだから」

と許容していることがよくみられる。

呆れ半分のケースも勿論あるだろうけど、容認されているケースも同様にあると思う。

 

子供の頃はそういうものを排するように、改善するように指摘されるのに、大人(ここで敢えて境界を定めることはしないけど、自らをそう認めている人)になってからは他人の、あるいは自分の個性や性格として改善を怠るようになる。

それで良いの?って僕は言いたくなってしまった。

 

きっかけは後輩の協調性を欠く言動から。

年齢から考えればあまりにも幼いと感じさせるそれに、後輩の同期達が口々に

「あいつはもう、そういうやつだから仕方ないんですよ」

と言う。

周囲がどうにかできるものでない場合もあるけど、例えば陰口が多いとかそれこそ遅刻が多いとかならそれは周りが教えてあげたって良いとおもう。ただしその人に、周囲にそうさせるだけの魅力があったり、勿論本人に改善する意識がなきゃ意味はないけど。

 

要するに悪いところまで自分らしさとするのは違う気がするのだ。だから自覚がなくても他人から言われることが多いことは改善するべきだし、そうやって癖づければ自分の行動を省みることにも繋がる。

 

ここでタイトル回収するんだけど、じゃあどこまでを「自分らしさ」とするのかってことを考えるようになった。

僕の例を挙げると、LINE上のやり取りで、素っ気ないと言われること。絵文字やスタンプをあまり使わないから感情が分からなくて怒ってるようだったり、冷たく感じたりする、と言われたことがあった。今も言われるか。

これを僕は自分らしさだと思っていた。でももしかしたら、って今一度省みると、これはコミュニケーションをさぼっていたんじゃないか、と思うようになった。

そうするとじゃあ僕らしさとはってなんだろうって悩みはどんどん尽きなくなる。

容姿や能力だけをその人たらしめるなら、もう性格に自分らしさは見出せないのかもしれない。

 

ただ、そんなわけはないはず。

明るいとか優しいとか、それを否定してしまうのは違う。かと言って悪癖まで自分らしさとはしたくない。

 

そこで僕が達した結論は、

「疑問を持つかどうか」だ。

遅刻癖を自覚して、それでも自分の行動に疑問を持たないならばそれは自分らしさだろうということ。

周りができるのは自覚するところまで、かもしれない。

そんなこと言われても、じゃあこういう場合はという意見も当然あるとは思うけど、僕はこう定義したい。

 

アイデンティティとかそういう話に持って行こうとしたけど、なかなか難しいのでここらへんで。書き足りない感もあるけど疲れたので続き書くかもしれない。

 

 

 

 

 

偽善者

拾ったばかりの無骨な武器

そう見えるように仕上げたかったんだ

白いキャンバスに見えるように上から白を塗りたくったんだ

 

馬鹿になりたかった

純粋でまっすぐな大馬鹿に

加減を知らずにやり過ぎていつの間にか

偉業を成し遂げるような常識の通じない愚か者で 

それが転じて天賦の際で

 

半端な頭も肩書きもやる気も志も愛情も友情も

それをいらないと言えない僕が嫌い

「ごめん」に「いいよ」が返ることも分からないふりをして尋ねて

知ってる答えをもらうまで僕は見ずに聞かずにいる

 

使い古しのガラクタでできた僕の武器

脆くはないぜ今ならば

先は丸くても捻くれてても

醜く刺されよ

この声だけは

 

https://youtu.be/HICP2AKj5Y4